佐村河内氏の件

これに対して自分が何か言うことがあるかどうか、そもそも彼の曲を聴いたことがないこともありかなり迷うところなのですが、曲がりなりにも音楽に関わりその道を志している身としてこんな格好のネタはない意見表明をする意味はあると考え、ここで一応の考えを述べてみたいと思います。

まず、彼の人気を決定づけた事象は「耳の聞こえない作曲家」であるという非常に目を引くプロフィールでした。
音楽家にとって聴力を失うことがどれだけのハンデであるかは想像に難くなく(僕などは音楽を「聴く」ことに中毒的なまでの快感を得ているので、そうなったら自殺も考えるかも知れません)、そうした中で作曲を続けていることは確かに聴衆の心を惹き付けるでしょう。
しかしながら、本来そのハンデと作品は別の問題です。
音楽界には彼の引き合いに出されたベートーヴェンに、現代なら盲目や片腕などの演奏者も少なからずいますし、スポーツ選手でも(今回巻き込まれる形となった高橋大輔選手もそうですが)大怪我や失意を乗り越えて活躍する人はたくさんいます。
そういった状況で研鑽を積み、一級品のパフォーマンスを成し遂げる彼らの努力と情熱は素晴らしいもので、その姿に感動する人は多いはずですし、そんな苦難の中からこそ得られるものもあるかも知れません。
ですが、ハンデを乗り越えることでパフォーマンスに劣る部分が出来るとすれば、どんな感動的なストーリーに彩られていようとそれが「見劣り」である事実は変わりません。
Aさんは恵まれているから逆境を背負ったBさんの方が凄い人だ、なんて理屈は「成果に目を向ければ」ありえないはずです。
つまり、逆に言えば少なくとも音楽や絵画など感性を用いる分野において、作品の評価と作者の背負ってきたストーリーは不可分であると思います。
ですから、僕は「純粋に作品だけを評価する」などという人はあまり信用できないと思っているし、本当にそのような態度で作品を評価するならその行為は観賞態度として不適切だとさえ考えています。

然るに、今回判明した彼の行為、被爆二世であり聾唖の作曲家であるという悲劇的なプロフィールを無関係の人間の楽曲に付加し、それを世間に向けて発表する、というのは不当に作品の価値を高める(水増しと言ってもいい)ことに他ならないと思うわけです。
しかもそのプロフィールは作品とは関係なく彼を悲劇のヒーローに仕立て上げ、多くの人の彼に対するシンパシーを誘い、一方で彼の才能と実績を誇大にアピールするものでした。
その上で元々無関係に作曲された楽曲を原爆被害者への鎮魂と銘打ち、彼のプロフィールと重ね合わせる形で最大限に感動的なストーリーを演出して見せました。
これを巧みなプロモーションと見ればその通りですが、そのストーリーと楽曲に一切の繋がりがないとなれば、自らの名声を高めるために利用したそれはある種、楽曲に対する背信行為です。
更にそのプロフィール自体が作り物だったとするなら、もう言い逃れの出来ないほど作品を汚し、作曲者の新垣氏をも貶める行為ではないでしょうか。
結局"HIROSHIMA"と銘打たれた交響曲は、広島のための作品などではなく、一人の男が名声を得るための安易なお涙頂戴劇の演出に利用されただけの、哀れな被害者になってしまったのですから。
先に作品とストーリーは不可分だと思うと言いました。
つまり、元々ある男のイメージを職業作曲家が形にした大作「現代典礼」として世に出られたであろう交響曲は、虚飾の物語によって一時はその価値を高めましたが、最後には全ての飾りがはがれ、発案者の欲望のために蹂躙され尽くした姿を晒すことになった……個人的には、そう思うわけです。
そして、このような経緯を経てしまった以上、どうしたってこの作品は元の"現代典礼"に戻ることは出来ないでしょう。

各報道でのエピソードや電子メール、楽曲の指示書などを見るに、彼はオカルティックなまでの妄想気質で、相当に自己顕示欲が強い、いわば構ってちゃんで、凄まじく自己中心的な人間であるように見受けられます。
正直、見えている限りでは人間性的には褒めるところがない……というかかなり軽蔑すべき人間のように思えますね。
風貌や紛い物のカリスマを纏っていたところも考えると、キャラクター的には新興宗教の教祖に近いのではないかとも感じます。
彼を取材したNHKスペシャルの中で東日本大震災の被災地に赴き、被災者と交流するシーンがありましたが、こうした行動も"HIROSHIMA"と同じような新曲の箔付けに他ならなかったのでしょう。
たとえ訪問先の被災者に心からのシンパシーを感じていたとしても(上述のような人間性であればそれも疑わしくはあるところですが)、彼が実際に作曲を行っていない以上、あそこで行われた交流に実体としての意味はなく、ここでもストーリーの演出に利用されたに過ぎないのですから。

……最初に「音楽に関わる身」とか言っておきながらここまで彼の行為に対する道義的な話に終始してしまいました。
ひとつ確かなのは、偽の経歴で自らを飾り立て、他人の曲で名声を得た彼を、作曲を志す人間として決して許せる心情にはないということです。
偽のプロフィールがいけないというのではありません。世の中には地球外や別世界から来たという連中もいます。
他人に依頼してはいけないわけでもありません。実際、当初に行われていたであろう類のオーケストレーションはそれを請け負う企業も存在します。
ただ、同情を誘うような経歴を作り上げ、自分自身だけでなく原爆被害者や震災被災者への同情までも取り込む形で話題を作り、自分の作品でないものを祭り上げてその賛美を一身に受けるというのはあまりに身勝手で、音楽と自分を支えてきた全ての人を愚弄する行為に思えます。
実際のところ彼の頭の中にどの程度楽曲のイメージが浮かんでいたかは知る由もありませんが、他人に実際の作曲を任せ続けて満足できるということは、彼は作曲家の肩書きが欲しかったのであって作曲家になりたかったわけではないのだろうと思います。
それは曲を作りたくて毎日色々と考えつつ未だ作曲家を名乗る域には遥か届いていない一人の人間として、ひどく腹立たしいことのように思うのです。

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